サイババの言葉批判1−20
人はなぜ言葉を持っているのでしょうか? 人の言葉は他の動物には通じません。まして、石ころには全く通じません。それは、人の言葉が人と人とを結び、心を通じ合わせるために発明されたものです。そして、人の姿も能力も見てごらんなさい。もし、あなたが、一本の松の木だったら、こういうでしょう。
「どんな人間も似たり寄ったりだ。どんぐりの背比べをしてばかりいるなあ」
福沢諭吉は「人の上に人を創らず、人の下に人を創らず」と言いました。だから、人は神のように絶対的な上に立ち、ものを言ってはならないと思うのです。平等が基本でしょう。真理というのは、人類みんなで探し求めていくものです。一人の人間、しかもサイババという個人の言葉が真理というのは論外です。
ヒンズー教の根本教義で、「フラフマン(神我)とアートマン(真我)は全く同じである」というものです。でも、全く同じであったら、どうして言葉を二つ持つ必要があるのでしょうか。人は言葉の違いによって、ものを識別できるのです。その識別する力こそ知恵なのです。そして、物事を明らかにしていくことができるのです。
アヴァターの人生におけるひとつひとつの足どりは前もって確定されたものです
アヴァターの人生におけるひとつひとつの足どりは前もって確定されたものです。スールパナカー(ラーヴァナの妹)の出現は、ラーヴァナがやって来る前兆であることをラーマは知っていました。神の御業をみせつけるために、ラーマはシータに炎の中に入ってそこにとどまるよう言いつけました。すでにラーマが肉体をとる以前から神はラーマにシャクティー(超能力)を与えることを決定していたのです。ラーヴァナの修業は凄まじいものであったので、ラーヴァナが大きな罪を犯さないかぎり、彼が神から与えられた恩寵を帳消しにすることはできなかったからです。(3月28日△朝)
人の生きる姿は誰も決められない
神話とか物語というのは、必ずそこにその話を作る作家がいます。作家には全体のストーリーがあらかじめ出来ています。特に推理小説などのようなものは、最後の答えを用意して、最初の問題を作る作業のようなものです。
そして、その作家こそ、神であり、物語の主人公こそ、神の化身なのです。これを現実の人類の歴史に置き換えて、サイババは語っているのです。過去の出来事を実はこうなんだと解釈をかえて楽しんでいるようなものです。
でも、その神話も物語もその解釈も、真実かというとそうではありません。過去はいくらでも語り、解釈できます。でも未来は語っても、まず当たることはまれです。未来はいつでもほとんど未知です。未来を予言して、もし100%当たるようであったら、この神話の解釈は真実かもしれないといえるでしょう。彼の予言はほとんどはずれていたというのが事実なのです。
アバター(神の化身)は肉体をもつ人間すべてのことを言います。その人間すべての人生がすべて決められたものだとは誰も言えません。決められていないから、自由があり、挑戦するという命の輝きがあるのです。
ほんとうの「アニャーナバクティ」とは内なる自己の本質を深く探求することから得られるのです
バーニーは何色です
「アニャーナバクティ(絶対的な信愛)」とは「あなたよりほかに救い主はいません」と言って、神に全託することであると私たちは感じています。たんに「あなたは母であり、あなたは父であり、あなたは友であり、あなたは救い主であり、神々のなかの神です」と宣言することで、神に全託しており、「アニャーナバクティ」を実践していると思っています。ほんとうの「アニャーナバクティ」とは内なる自己の本質を深く探求することから得られるのです。(3月29日☆夜)
心の正体は自他の追及から
神の追及と自己の追及は同じものであるという考え方から、この発言が生まれます。「ソーハム(我は神なり)」「ブラフマン(神我)はアートマン(真我)なり」そして、それを悟った者が「神の化身」であり、「仏覚者」になるというのがインド古来の考え方です。
その考え方に異論を唱える人は少ないようです。なぜなら、それは、神を信じること、また仏の世界があることを信じることと同じだからです。いわば、ある一つの考え方が真実であると断定したものだからです。「私が何を信じようが、信じまいが勝手でしょう。信仰は自由なのだからといって、否定する考え方を入れ込まないでしょう」と。
神の存在、自己の魂の存在、それらは確実に確かめられる存在ではありません。それらは人間の心から生まれた存在観だからです。もし、一匹の蟻がいたら、その蟻が死んで、その蟻の魂を、本質をあなたは捜そうとするでしょうか? 鳥インフルエンザウイルスの一個の魂が、人間の魂と一つであるとあなたは追及するでしょうか?
もし確かめられるものが何かというなら、それはその人間の肉体とその肉体が生きた心の存在でしょう。そして、心というのは、自分一人だけでは存在できません。他があってこそ生まれるのです。自己の追及だけでは片輪です、自他の追及が両輪です。
自然の一部でしかないものがどうして神の意志に逆らえるというのでしょう?
クリシュナが生まれた瞬間、父親を縛り付けていた鎖は外れ落ち、鍵のかかっていた扉はぱっと開き、そして牢の番人たちは至福の大海のなかに浸りきっていました。そのため、彼らはこの物質界で起きている出来事にまったく気付きませんでした。彼らのなかで燃え盛っていた憎しみの炎は鎮められ、無明の中に英知の薄明かりがさしこんだのです。天は大地を潤すため恵みの雨を降らします。自然の一部でしかないものがどうして神の意志に逆らえるというのでしょう?(4月20日☆夜)
自然の一部、されど一部が集まって自然が在る
グレンワッドを作る方法
インド社会は世界の「人類みな平等」という博愛思想から、はずれて、いまだにカースト(身分差別)制度、職業差別が根強く残っています。その差別を何千年もの間、推し進めている原因は何でしょうか? それはバラモン教であり、ヒンズー教の根本的考え方にあると思われます。二千数百年前に、シャカが誕生し、苦行と神を否定し、新しい人間の苦しみの原因から出発し、仏の考え方・・平等思想を打ち立てました。
でも、仏教はインド以外の諸国に広まりましたが、当のインドでは拡がることはありませんでした。宗教が民族宗教から世界宗教に変化するには、「平等思想」は欠かせないのです。でも、インドの社会はいろいろな神様を奉ることが日常なのです。そして、未だにバラモン(僧侶)が最も権力を持っている社会なのです。サイババの話はほとんど神話から始まります。神話がまるで事実であるかのように語ります。それはサンタクロースの話が事実であるかのように話すのと同じです。
ここでいう「神の意志」とは何でしょうか? これは絶対者・支配者の意志をいうのです。そして、民衆はその意志に絶対逆らえないから、すべて服従しなさいというメッセージが暗に隠されているのです。
象と蟻の話があるでしょう。今はましてインターネット国際社会です。一人の蟻のような呼びかけが大きな象の国際社会を動かせる時代なのです。
もし、どんな人間も神の意志に逆らえないのなら、何の問題が生じるというのでしょう。逆らえるからたくさんの問題が生じるのです。そして、その問題こそ、私たちに生きる歓びを与えてくれるのです。
望みがかなう、かなわないに左右されることなく
プレマ、神の愛をしっかりと心に抱いていてください。望みがかなう、かなわないに左右されることなく。この宝物をつまらないことのためにすべり落とさないようにしてください。サイババのおかげでなにをやってもうまくいっているときは、あなたは先頭に立って歌うはずです。
「サイシャンカラ、サイシャンカラ(サイは幸せをくれるシバ)」
ところが、一旦くじけてしまうと、すぐに背を向けてこう吐き捨てるのです。
「サイババは、神様じゃない」
願望を成就させてくれるのが神である
神は願望成就の木だと言われます。だから、もし、願望を叶えてくれなかったら、それは神ではないと思うのは自然な感情です。また、願望をかなえるどころか、苦しみを与えたり、残虐な死さえも与えられたら、神なんかいないと思うことも自然な感情です。もし、愛するわが子を残酷な形で、神が奪ったら、その神は悪魔だと思うでしょう。そして、その悪魔への憎しみでいっぱいになるでしょう。
そこで、その憎しみと苦しみをやわらげてくれるのが仏です。日本では神を結婚式に、仏を葬儀にと使い分けるのはそのためです。
サイババは単に自分が神様だと思い込んでいるにすぎません。そして、その神を演じているだけです。だから、当然、信者をなだめるために、「サイババが神であることをどんなことがあっても信じなさい」というのです。でも、このなだめかたは狂信者を生みだしてしまいます。
人はある事実によって、信じるだけでなく、疑うことによっても、安全な生き方ができるものです。
なぜなら、 「サイババは神様ではない」というのは本当のことだからです。
あなたの話すことばのひとつひとつが神なのです。ひとつひとつの行い、ひとつひとつの思い、そのすべてが神なのです
先生は、タイトルを何を意味している
願いごとをしながら神に祈れば、なんらかの理由で望み通りのこたえが返ってこなかったり、素早く返ってこなかったりしたときに神を非難してしまう危険を犯すことになります。そんなことになってしまうのは、あなたが
「神は世界の外にいる存在で、 どこか天国か神聖な場所のような、はるか遠いところにいる」
と思いこんでいるからです。しかし、神はあなたの中にいるのです。あなたの話すことばのひとつひとつが神なのです。ひとつひとつの行い、ひとつひとつの思い、そのすべてが神なのです。だから、神にふさわしいことば、神にふさわしい行い、神にふさわしい思いを大切にしてください。そして、神があなたにあたえた使命を、力のおよぶかぎり、あなたの良心の満足のいくところまで全うしてください。それこそ、もっとも実りのある礼拝(Puja)なのです。(6月3日○昼)
願望の眼鏡で観るとすべては神になる
「思い」、「言葉」、「行い」の底に流れるものは何でしょうか? それが神だとサイババは言います。なぜでしょうか? しかも、世界の外にいるサイババも神だと言ってもいるのです。さらに、名あるもの、形あるものはすべて神だと言っています。およそ神でないものはないと言っているのです。簡単にいえば、神は偏在ということです。それを名も形もない思いにも存在するということを言っています。そうなると、「すべては神である」ということです。すると、信者は自分がサイババの体の中にいると感じ、自分の体の中にも、言葉にも、思いの中にもサイババがいると感じます。神では実体がつかめないために、偶像であるサイババのイメージを使って、神との一体感(アーナンダ・至福)に陶酔するのです。
これは、人が恋をしたときの状態です。すべてが恋人に感じます。すべての思いと言葉と行いが恋人に向けられます。もし、実際に恋人の体の一部が触れようものなら、幸せの絶頂に達します。これが愛の本質であり、信仰の本質でもあるのです。
では、その恋人とはそしてサイババとは何でしょうか? 客観的にみれば、一人の人間にすぎません。愛はどこからくるのでしょうか? 信仰はどこからくるのでしょうか? 神はどこにいるのでしょうか? それはあなたの願望からくるのです。願望の素があなたの思いに、言葉に、行いにあるのは当然のことだからです。そして、その願望が眼にくれば、その願望の眼鏡をつけます。その眼鏡と通して、世界を観れば、「すべてが神」だと思えるのは当然のことなのです。
その根本原理こそ、アートマなのです
宇宙は実在するのだろうか?それとも、実在しないのであろうか?この問題はずっと長い間あらゆる国で、人々の胸をときめかせてきました。現実主義者と理想主義者たちはおたがいに何世紀にもわたって議論をたたかわせてきたのです。分子は絶え間なく変化するパターンとなって、多種多様な形と名前をとる。宇宙とはその分子が密集したものである。科学者、すなわち現実主義者はそう考えました。しかし、それは部分的な事実でしかありません。一切の事象は移り変わってやまないけれど、その奥にはかならず確固としたなんらかの根本的なものがあるはずだ。精神性を志向する人々(Vijnana Vedin)は物質的なものを志向する人々(Dhoatik Vedin)にたいしてそう指摘しています。
宇宙にはある基本的な力が存在するにちがいありません。それはエネルギーと言ってもいい。素焼きの壺の基本が粘土であるのと同じように宇宙の基本をなしている現象があります。精神性を志向する人々によれば、その根本原理こそ、アートマなのです。(6月7日☆夜)
エネルギー不滅の法則は無から有が生まれないという根本原理です
精神性を重んじる人にとっては、物質のエネルギーが「アートマ」であると、サイババは説いています。そのサイババ流に、その考えを展開すれば、「アートマ」は「ブラフマー」であり、「ブラフマーは神」なのです。
だから、エネルギーは不変で不滅のように、「アートマ」も不変であり、「ブラフマー」も不滅なのです。
では、エネルギーと魂(アートマ)」と違いは何でしょうか? エネルギーは単に運動・熱量を表す数字に過ぎません。魂は数字ではなく、個性が凝縮された心なのです。そして、ブラフマーは数の限定をはずしたエネルギーそのものをいうことになります。そのエネルギーは運動・熱量です。それに対して、ブラフマー(神)は人の心を持った愛になるのです。
「エネルギー不滅の法則」というのは、エネルギーが、ある仕事を介して変換する場合、外部からの影響を全く遮断してあれば、物理的、化学的変化があっても、全体としてのエネルギーは不変であるという原理であり、無からエネルギーを創造しえないことを示す物理学の根本的原理です。それは、無から有が生まれるような物質化現象を否定するものなのです。
サイババが手から砂や宝石や神像を出すことを否定する根本原理なのです。そして、エネルギーが魂とは違うように、サイババが神であることを否定する科学的根本原理でもあるのです。
愛がオーガニゼーションの仲間たちにあふれているのです
サティア・サイ・オーガニゼーションがなしている奉仕と犠牲の数々は途方もないものです。この一切の基盤となるものは愛であり、愛がオーガニゼーションの仲間たちにあふれているのです。いにしえの時代から『ウパニシャッド』の祈りは伝えています。
「神がわたしたちみなをお護りにならんことを。神がわたしたちみなをお育てにならん� ��とを」
これらのマントラにみなぎっている調和の精神が今日でも大きな力を発揮しているとすればそれはサティア・サイ・オーガニゼーションにおいてのみといえるでしょう。(7月23日△朝)
選民思想から脱却しよう
なぜ組織を作るのでしょうか? 神が偏在であれば、特別神の組織など作る必要があるでしょうか? 尊い愛の神の組織の一員であるという意識は他の組織に対して、どんな感情を持ってしまうでしょうか?
これは宗教が民族の成立と深く関わっていることを思い浮かべることができます。そして、選民思想です。キリスト教における旧約聖書はまさに神から選ばれし民の物語です。それは民族の神です。でも、イエスが出てきてから、新約聖書が生まれ、その選民思想から脱却して、世界宗教になることができました。
ヒンズー教は民族宗教の域です。そこにシャカが出て、仏教は選民思想を抜け出て、世界宗教になったのです。サイババは神の化身はインド以外からは出ないと名言しています。神の化身思想そのものが、選民思想だからです。世界から一番すぐれた民族を選び、その民族から一番優れた神に化身を選び出すからです。
「すべての人が神の化身です」と、サイババは自分で言っていることを忘れないでほしいと思うのです。だったら、「すべての組織が愛が満ちあふれる組織なのです」、「サイオーガニゼーションだけが特別神聖で、優れた愛の組織ではない」のです。
0 コメント:
コメントを投稿