MAKE SOME NOISE
要するに、本という物質そのものに、僕は惹かれているのだろう。だから、情報にあまり興味がない。この本を読んでこれこれがわかりました、という要約的なことは、たまに訓練でやってみるし、知識が増えていく快楽がないわけではないけれど、本を読むという行為そのものに比べれば、それは大したことではない。
暗記するために読んだり、何か情� ��を引き出すために読むことが、昔から好きではなかった。世の中の人は、本を読む人は勉強好きというステレオタイプをもっているが、本は好きだが勉強は嫌いというタイプも、実はいる。僕はそれにあたる。
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もっと言うと、僕が好きな映画『ソフィーの選択』のワンシーンで、男性がエミリー・ディキンソンの詩集を、ベッドの上で軽く手の中で転がすシーンがある。そのように、本を転がしたり、ひっくり返したり、ぼーっと眺めたりしていたい。本の内容にしか興味が無い人なら、電子書籍で十分だろう。でも僕は本の物質そのものが好きなので、おそらく電子書籍も、kindleならkindleの物質そのものが気に入らないとあまり興味は持てない。
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何を言っているか、だけに着目するなら、何も装丁など必要ないし、文字すら必要がない。ところが本を読むと言う行為は、それの対極にある。冒頭に述べたように、眺める、ころがす、持ち上げる、めくる、そのすべての行為が合わさって読書なのである。極端に言えば、読まずとも読書なのである。
何を言いたいのかと言えば、情報のための読書は疲れますね、ということだ。昔、英語の勉強をしていたとき、単語の暗記が嫌いだった。文法の暗記も嫌いだった。だからとりあえず文章を読みまくることにした。暗記しないでも慣れで覚えようと思ったのだ。そうすれば、読むという快楽に、少しでも身をまかせることができるから。
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僕は「慣れ」が好きだ。考えることは好きではない。だからピアノの練習が好きだった。指に音楽を馴染ませる。そうすれば、理性よりも感情で、頭よりも手で弾くことができる。先日『情熱大陸』を見ていたら、マドンナのバックダンサーをやっていたダンサーが「踊りの形を真似るんじゃなくて、感情を真似る」と言っていた。そんなところだ。
話を戻す。僕は読書を極めて日常的な、起き上がったり、眠ったり、トイレに行ったり、靴を履いたり、そうした行為の一つとして捉えたい。ことさら、本を読むというのを高尚な、観念的な行為だと捉えたく無い。その結果このような人間になってしまった。
今、こうして膝の上に載せているパソコンの向こ� �側には、高く積み上げられた本の山が見える。精神衛生上よく無いという人もいるが、僕は本を積むのが嫌いではない。よく思うのだが、そうした欠点も含めて自分なのだ。
そのことを、僕はよく忘れてしまう。どこまでが自分なのか、悪い自分は本当の自分ではないから、改めればいいとは、どうしてもおもえない部分がある。細胞と同じように、都合のよい一部だけ切除することができないのが、人間ではなかろうか。
「私」という人間は、自分が思っているほど狭くは無い。あるいは固定されてもいない。そのことを理解するのはむずかしい。自分のブランド力を上げるために、だとか、自分のイメージとは合わないとか、すぐそうして自分で自分の首を締めてしまいがちだ。
だからこうした文章で自分がどうだこうだ言っても、それは本当はわからないことなのだ。僕は僕を知っているだろうか。僕は他人より自分のことをよく知ってい� �というのは幻想では無いだろうか。だからこうして日々、書くことで自分を固定しつつ、突き放す。「書く」ことはまた、不確定な自分自身との終わり無き合意形成への負け戦である。
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