2012年5月12日土曜日

人は見ぬとも神は


人は見ぬとも神は

伝道朝礼拝説教                       

2011.3.20

 

人は見ぬとも神は

 

《聖書》 創世記39章1〜9節

 ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトに連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。

 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外はまったく気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。

 これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。

「わたしの床に入りなさい。」

 しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。

 「ご存知のように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことは一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


関係選手の罪悪感を経験するのか

 

《説教要旨》

旧約聖書の中にエステル記という小さな書物があります。その4章14節には次のように書かれています。「あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」(口語訳)。というものです。先週、このような聖句を冒頭に引用して三日間の断食祈祷を行なうように求めるメールが届きました。もちろん東北関東大震災のためにです。

この聖書の箇所が伝えることは、「今、あなたが行動しなければあなた自身が滅びる」というものです。しかし、わたしがこのメールを読んで最初に感じたことは、このような時機に自分の主張にぴったり当てはまる聖句をよく見つけてきたなあというものでした。みなさんの中でもエステル記が聖書のどこにあって、一発でこの聖書の箇所を見つける人はそう多くはないと思います。しかし、この人は普段から聖書をよく読んでいるのです。だから、緊急時にも自分にふさわしい聖句を見つけてくることができたのでしょう。

震災が起こって一週間余りが過ぎました。その一週間の間に色々なことが起こりました。買占めが始まりました。停電も起こりました。それらの出来事は、直接震災の被害にあった方々だけでなく、わたしたちを含めてその周辺の人々の心も揺すぶり続けました。そして、心を騒がし続けさせる中で、次第に魂まで揺り動かされてきたようです。


聖書の中では、心と魂は使い分けられています。心はわたしたちの感情の場です。魂は神と向かい合う場です。震災によって誰一人としてこのことを知らない人はいません。そして、震源地よりも遠い所でも実害がいろいろと出てきます。まだそこまで影響は大きく出ていませんが、これから日本の経済に影響が出てくれば、じわじわと地震の被害が更に広がっていきます。そのような時、誰もが自分の心が動かされるのです。迫ってくる不安と向かい合わなければならなくなり、そこで何らかの答えを出すように迫られます。答えないと明日から生きていけないと思うからです。しかし、心が騒ぐ中で、心の問いに答えようとすると、どうしても自分を中心にした答えしか出さないものです。ニュースでは、この地震が� ��罰だと石原都知事が語ったことが伝えられました。確かに自然の力を軽んじて人間の欲望を膨らませ続けたことへの天罰だという考え方も出てくるかも知れません。しかし、石原都知事は、その後、天罰発言を撤回したそうです。それでは余りにも被害者とそうでない人との間で、自分こそがこの出来事を取り仕切って神のようになってしまったことへの反省だったのでしょう。

今回の大震災は、わたしたちの心の中でその意味を探し出そうとする営みをも押し潰すほどの大きな出来事でした。自分では何が何のために起こっているのか分からないというところに追い込まれた時こそ、魂が目覚めるのです。魂は神と向かい合う場です。そこでは、神が主役です。神に尋ね求め、神が応えてくださる。そして、その神の答えに聞き従うことへと導かれる場です。その魂の扉が今開かれたことだけは間違いのない事実です。

しかし、魂の扉が開かれたからといって、それですべてのことが分かるのではありません。先ほどのエステル記を開いた人も、それが神から与えられた御言葉だと思ってその言葉にすがったのだと思います。けれども、そこで自分を捨てて神に従うことに徹しているかどうかを問うならば、人に聖句を伝えるとき、相手を裁くような形で御言葉を語るならば、それは石原都知事と似たことをしているに過ぎないのです。まず、神の前に自分自身が徹底して服従することが求められることから始まるのが、神の前に立つということだからです。


自分にとって都合のいいこと悪いことで物事を判断するのではなく、都合の悪いことでもこのことを今神がなさっているという形で受け止めることは決して容易なことではありません。それこそ、命からがら辿り着いた避難場所で起こる悲劇のようなものです。しかし、そのようなことはわたしたちの現実ではよく起こることでもあります。たとえば、今まで物事がすべて順調だった人が、急転して奈落の底に落とされるような経験をすることがあります。そのような人物として聖書に登場するのがヨセフという人です。

ヨセフは、12人兄弟の上から11番目の子供でした。年寄り子でしたので、父親のヤコブから目の中に入れても痛くないほどに可愛がられました。しかし、そのお蔭で甘えん坊で鼻持ちならない性格がヨセフの中に築かれていきます。傲慢な青年として育ってしまったのです。当然、兄たちからは反感を買います。遂にある時兄たちの気持ちが爆発して、ヨセフは奴隷として売られてしまったのです。それまでは、兄たちは野良着を着ていたときにもヨセフだけは晴れ着を着ていた暮しから一変してしまうのです。しかし、このような境遇の変化はすべてが悪いことへと結びつくものではありません。奴隷として売られ、エジプトへ連れて来られたヨセフは、奴隷として働かなければなりませんでした。それは、甘えん坊で高慢な彼の性格を打� �砕くことになりました。人に仕えることで自分自身が変えられていったのです。甘える人間から主人に仕え、主人への心配りをする中で人間として成熟していったと言えるでしょう。それが、今日の聖書の舞台です。

子供から大人へと成長する。そして、独り立ちして自分の人生を自分の力で生きる。これができれば親として安心なのですが、ヨセフは苦難によってそこまで成長していったのです。しかし、そこまで人間が成長すれば、後はすべてうまくいくかというと、人生はそんなに簡単なものではありません。次のうまくいく出来事の背後に隠されている奈落の底が登場してくるのです。

39章2節以下を暫く読んでいただくと、そこには、奴隷として仕える身となったヨセフではありながら、その勤めはすこぶる順調で何事もうまく進んでいる様子が描かれています。ヨセフは事をうまく運び、そのことで主人のポティファルの目に止まり、家の管理、財産の管理をヨセフにすべて任せるほどの信頼を得たことが記されています。


しかし、この順調な人生を聖書はどのように描くかというと、2節では「主がヨセフと共におられたので」、3節では「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれる」、5節では「主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された」と語って神がなさったことだということを強調します。自分で大人になったのではない。神さまに成長させていただいたのだと聖書は言いたいのです。そして、大人として成熟する極みを描いて、「主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された」と語ります。これは、神がヨセフを祝福すれば、その祝福はヨセフの主人であるポティファルにまで伝わっていくということを伝えるのです。このようなときの聖書の常套句は、6節の「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた」というものです。つまり、だれからも愛される要素をヨセ� �は備えていたということです。ヨセフが微笑めば、みんながその笑顔につられて元気になるのです。成熟した人は周りを元気にする力を自分の中に持つ。そして、それが大人として成熟することの終着点であることを聖書は語るのです。

ここまで神さまに成長させていただくのにもかなりの時間が必要だと思いますが、ここから人生の最大の問題が始まるのです。ヨセフが大人になったのは、自分の力ではありません。神の力によるのです。しかし、その神の力は人間であるヨセフを通して現れるので、そこで周りの者が誤解をするということが起こるのです。それが、ポティファルの妻がしたことでした。「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた」という様子は、スターのようなものかもしれません。テレビで見るうちは憧れで終わりますが、そのうちに自分ひとりの物にしたいと願う。それがポティファルの妻がしたことでした。奴隷として主人に仕えるヨセフです。主人に仕えることは、主人の妻にも仕えることを意味します。主人の妻が命令す� ��ことは主人が命令することと同じです。奴隷であるヨセフは主人の命令に逆らうことはできません。そのような中でポティファルの妻はヨセフに「わたしの床に入りなさい」と命令するのです。


このことは現代では浮気の強要ということに見えるかも知れませんが、聖書の中では姦淫です。姦淫とは、相手の家庭を壊す罪として定められています。自分たちの欲望を満足させる代償に相手の家庭の幸せを破壊する罪なのです。ここでヨセフは、二つの道のどちらかを選ぶことが求められます。主人の妻に従わなければ、主人の命令に従わない奴隷として罰を受けます。すると、神に罪を犯すことになります。逆に、神に従い、姦淫の罪を犯さないと決心すれば、主人に打ち据えられることになります。人生の大きな決断に迫られたのです。その原因は、ヨセフが神に祝福されたからです。そして、その神の祝福を誤解した人が現れたからです。あの人に出会わなければ、こんな事にならなかったという愚痴は通用し� ��い所に追い込まれています。

そのような中でヨセフはどのようなことを決断したか。9節では「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」とヨセフは語り切ります。神を選んだのです。そのことで自分が主人からどのような罰を受けても神から出た祝福を受け止めた者はどこまでも神に従うのです。ここで初めてヨセフの人生の土台ができたのではないでしょうか。すべての出来事は神から出て、神に帰っていくのです。そこには、神のご計画があるのです。その計画に自分自身が従う。そこにヨセフの人生の土台があるのです。わたしたちは今の時こそ、このヨセフの信仰に生きることが求められていないでしょうか。



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