聖トマス大学がつぶれる日A ある卒業生より「母校・英知大学の破綻について」 -★おつるの秘密日記 酒と薔薇と愛の日々★
教えて頂いた日記です。
わたしは、この日記を読んで泣きました。
母校・英知大学の破綻について(1)
ここ一週間、何も手がつかなくなった。思い入れのある母校「英知大
学」が破綻し、閉校の可能性が大という報道を聞いて以来、落胆のあ
まり何も考えられなくなった。
wiki英知大学
朝日新聞 報道
小田武彦学長による募集停止の声明
卒業生である私の衝撃は深い。
しかし、今は感情的になるより、状況分析が必要な時と思われる。
英知大学がなぜ衰亡したか、私なりに振り返ってみたい。
おおよそネット内および「教育評論家」とやらの反応は、
「それみたことか。これは私が主張してきたように……」という、
いつもの口上で、少子化と世界不況の時代に無名三流地方大学は
淘汰されて当然だ、というものだ。
はっきりいって、的外れも甚だしい。私が見てきた現実は全く
あべこべである。
実際、卒業生ですら「時勢に乗ろうとした聖トマス大」にはもう
愛想が尽きている。私たちが嘆き、悲しみ、腹の底から慟哭している
のは、時勢などまるで無頓着な、まるで桃源郷のような母校「英知大
学」が消えることである。
「麗しき われらが巣屈 マレンピア」――ジャン・コクトーの
『阿片』のエピグラムに出てくる狂人病院に私は母校を例えたことが
あるが、ほんとうにあそこは麗しき狂人病院だった。
外壁は煉瓦造りで見栄えがいいが、中は築30年近いリネリウムが
はがれたオンボロで、木製の開きドアをギーギーあけながら、冷暖房
のない教室で授業を受けていた。学食はよく調理師免許が取れたなと
疑うほど不味くて、ある時某助教授が学食で味噌汁をすすっていた
ら、具と一緒にゴキブリの卵が出てきて、大騒ぎになったことがある
(その話を聞いてから、私は学食ではなく、コンビニ弁当に切り替え
たが)。
信じられないような話がいくつも連なっていく。校門横の側溝に錆
びた自転車が投げ捨てられているのに、私が四回生になるまで3年間
放置されていた。校門の前は一面コスモス畑だった。こういうと聞こ
えがいいが、ようするに畑なのであって、どこでどう迷ったか、そこ
から山羊が校舎まで迷い込んできて、蛍光灯がパッとしていない暗い
廊下をノコノコ歩いた揚句、エレベーターに一緒に乗ってしまうこと
があった。その横を、詩人の多田智満子先生御本人が何事もなかった
かのようにフワフワスタスタ通り過ぎって行った。――しかし、今考
えるとデルヴォー以上にデルヴォー的な、もの凄い光景ではなかった
か。念のためにいっておくが、そんなことが一、二度あったと言って
いるので� �ない。毎度こんな調子だった。
教員も教員で、もの凄かった。今道友信博士の自伝『知の光を求め
て』の最後のページで、英知大学を「やっと落ち着いて学問の専心で
きる」と評価した後、岸教授(元学長)など英知大学の教授数人にとく
に謝辞を記されているが、この岸先生は実はエスパー(!!)で、お若い
時はスプーン曲げなど余興でされていたらしい。「エスパー学長」な
どと陰で渾名をつけていた私は「ぜひ見せてください」とせがんだ
が、「いや〜。歳を取って念力が落ちたもので。。。」とはぐらかさ
れてしまった。岸先生は数年前に帰天された。もっと話しておけばよ
かったかと思う。
それにしても、元学長にスプーン曲げをせがんだとは、今では冷や
汗をかくが、当時は全く平気だった。それは教員だけでなく、職員も
そうだった。朝、校門をくぐると事務室に行き、備え付けのネスカフ
ェでモーニング・コーヒーを一杯飲んで、授業に出かけた。それを見
て職員さんが「てめぇ!!何様のつもりだ!」と怒ることはなかった。
美貌の女子職員さんが「おはよう……今日も勉強、がんばってね
♡」とおかわりのコーヒーを差し出してくれた。念のためにい
っておくが、そんなことが一、二度あったと言っているのではない。
毎度こんな調子だった。
こんな調子で、しょっちゅう飲み会が校舎で開かれた。なぜか私は
いつもバナナを切る係だった。当時の井上学長から一回生までワイワ
イみんなで飲んでいた。酔っぱらった英文学科長以下教授陣と学生が
一緒になって、当時はやっていたチャゲ&飛鳥の「Say Yes」を合唱し
ていた。ほろ酔い加減の先生に「君、最近何を読んだ?」と言われた
ので、エラスムスの『痴愚神礼賛』をあげたら、「それは良い本を読
んだ」と感心された。あとで聞いたら、NHKの宗教講座を担当するほ
どの先生だったので、顔から火を噴く想いだった。
フィリピンが専攻だった先生は夏場に半ズボンで講義したり、マニ
ラ空港から大学に出勤してきたり、私たちにこれでもかとパワーを見
せつけていた。学園祭になると、その先生の研究室が3日間飲み放題
で、午前中から夜までワイワイがやがや飲んでいた。焼きソバ屋と軽
音楽コンサートというありきたりの催しものより、ずっと面白かっ
た。その先生の研究室は美人が集まるので有名だった。確かにパワー
が全開でカッコいい先生だった。
もちろん、先生から怒られることもあった。その先生に自宅に呼び
つけられ、「文学研究への心構えが足りない」と3時間か4時間説教さ
れたことがある。念のために言っておくが、この先生は文学が専攻な
のではない。専攻外の学生のために3、4時間も説教してくれたなん
て、有難い話ではないか。
学生は教授を親と慕い、教授は学生を我が子とまではいかなくて
も、姪っ子や甥っ子のように扱ってくれた。かつての英知大学の魅力
といって、家庭的雰囲気がまずあげられるだろう。なんとも迫真さを
欠いた磨滅した魅力だが、ここまでの域に達していた大学は他の大学
にないだろう。そして、あらゆる家庭が家庭的とはかぎらない。先生
に結婚の仲人を頼んだ学生もいたし、卒業して小学生の息子がいる今
になっても教授と毎月テニスをしている学生もいる。
先月卒業したばかりという先輩が背広姿で大学のベンチに座ってい
ることもあった。どうしたのですか?ときくと、外回りで嫌なことが
あり、つい大学に来てしまったということだった。そういえば、悩み
事を相談したり、懐かしむためだつたり、やたらに卒業生が構内で見
かけた。
クラスメートだって、同様だった。
私はいまだにさっぱりわからないので、大真面目に一度お訊した
い。大学のクラスメートの半分以上を知らないという学生がいるらし
いのだが、一体どういう付き合い方をするとそうなるのだ?私のクラ
スは50人ほどだったが、全員の顔どころか趣味性格まで思い出せる
し、一つ上のクラスの先輩も名前を言われれば顔ぐらいは思い出
す。
英知大学は偏差値が低いのは事実だとしても、全員が全員バカだっ
たわけではない。というか、真剣ですらあった。なにしろ大学院もな
い学校である。教授が自分の将来について何かしら筋道をつけてくれ
る可能性は万に一つもない。一年のうち360日、図書館に通っている
学生もいたし、受験生でもあるまいし、昼食を食べている時も英英辞
典を読んでいる学生もいた。「俺、実はハングルがしたいんだよ。ハ
ングルを勉強して、マスコミ関係の仕事に就きたいんだよ」と聞かさ
れた仏文の学生がいた。その学生が何カ月か姿を見せないので、どう
したのかと思っていたら、韓国に行ってソウルのテレビ局に潜り込
み、語学と仕事の勉強を兼ねてずっとアルバイトをしていた。「俺も
負けてられ� ��い!」と思った。
なるほど、何の目的もなく怠惰に日々を過ごしている学生もいた。
しかし、英知大学で夢を持ち、歩み始めた学生もいた。そして、弱々
しい若者の夢を冷笑する教授もたしかにいたが(特に仏文科はそうい
う先生が多かった)、夢をつぶそうとする教職員は一人もいなかっ
た。「アカデミズムのボス社会」の弊害を聞かされて、こちらも聞き
かじったようなことを受け答えしてしまうが、ほんとうのところかな
り的外れなことを言っているのではないかと思う。私は、そういうも
のを今まで一度も体感したことがない。
イスラム教徒は邪悪な野蛮人です。
英知大学などという聞いたこともない三流大学に入って、今でもよ
かったと思っているし、一生あの大学に感謝しつづけるだろう。40も
近いというのに、石に齧りつくような想いをして、変なことをコチョ
コチョいまだにやっているが、なまじの一流大学に入っていたら、と
っくに折れていたと思う。実のところ、今まで学歴詐称のお誘いが二
度ほどあるのだが、全て御断りをした。一緒に過ごしたクラスメート
に「俺はお前らなんかと一緒じゃない。お前らなんか知らないよ」な
ど、そんな無礼な振る舞いができるだろうか。
たとえあの大学がこの世から消えても、最終学歴は麗々しく「英知
大学仏文科卒」と書いていくことだろう。一種の誇りをもって。
つづき
母校・英知大学の破綻について(2)
もちろん、私が学生をしていた頃には「就職氷河期」がはじまり、
「大学冬の時代」が訪れることもわかっていた。ある女の先輩と帰り
道でそんなことを話し、橋のたもとで「これから、うちの大学、どう
なってしまうのですかね〜」と問いかけた。「うちは大阪カトリック
教区がついているから、大丈夫よ。」とニコニコして先輩は答え、冗
談交じりに「カトリック教区がなくなったら、たいへんなことになる
けどね」と笑った。
大学四年の時に、国際文化学科なるものが新設された。どこのどの
地域をどう研究する学科なのかわからなかったが、「これからの時代
はそういう曖昧な学科も必要なのかしらん」と納得した。その四年の
講座で「社会調査法」なる授業があり、調査と統計の練習を兼ねて、
全学生に今後の英知大学のあるべき姿についてアンケートを取ったこ
とがある。有意義な行為で、つられて他の教授も同様のアンケートを
取ったほどである。ただし、これらは各教員単位での話で、大学なり
学科が学生の意見を聞いてみるようなことはついになかった。
私はそれで卒業して群馬に帰ったが、2年後に英知大学はとりあえ
ず英文科の大学院を立てた。実は、私にも卒業するときに話が何度か
来た。英文に転向し、1、2年待って、大学院に入らないか、と。その
話を前述の「社会調査法」の先生に相談したら、言下に「よせ! やめ
ろ!」と言われた。私自身、現実的・将来的な話とは思えず、仏文を
捨て英文に転向する気はさらさらなかったので、本気で考えるまでも
なかった。――ただ、今考えると、この頃から何か見失い始めたのだ
と思う。この「社会調査法」の先生は、以後の英知大学の狂騒によほ
ど嫌気がさしたのか、呑気にノホホンとして、母校と付き合い続けて
いる私にまで三行半を突き付け、数年後に他の大学に出て行ってしま
った。
卒業して4年目だったか、学生会館をつぶしてタワービルを建てる
と聞いたあたりから、私は母校の施策に納得いかないものを感じ始め
た。
学生会館といっても、オンボロ大学のこととて、旅館の大部屋程度
しか広さはなく、そこに壊れかけた長椅子と安っぽいジュースの自動
販売機しかない。しかも女子学生は寄り付こうとしないほど、汚なら
しい建物。二階建ての建物だが、あまりに汚いので、私たち男子学生
でも二階に何があるのか見に行く勇気がないほどだ。その自動販売機
でオレンジジュースだかを買ってきて、長椅子に座っている友人に差
し出し、「あのさぁ……チマちゃんのあの性格、なんとかならんかね
ぇ??」などと話をしていた。
そこをつぶして、12階建てのやたらに綺麗なタワービルを建てたと
いうのである。その年、タワービル完成を自慢する恩師、教職員から
の年賀状を何枚もいただいたが、私はあのタワービルが気に入らない
ので、その年賀状一枚一枚に、「今年の初夢は、そのタワーをキング
ギドラかガメラがずたずたに破壊する夢を見ました」などと、なんと
も厭味な返事を書いた。今も私はあの建物が大嫌いなのだ。そんなに
人数もいない、さして面積が必要な研究、授業をしているわけでもな
い大学に、なんでこんなバブル期のような箱モノが要るのか、全く理
解できない。それで理由を訊くと、「時代の流れ」「(大学)延命のた
め」と来る。私に言わせれば、そんな箱モノで虚勢を張ろうという神
経は実際� �はどこの馬の骨にでも冷笑・侮蔑を誘うしかないのであっ
て、そんなことより、例えば図書館を拡充して、当時もかなり持って
いた宗教・古典哲学関係の西洋文献を一般市民、アマチュア研究者に
も利用できるようにすることのほうが、よほど大学の存在意義を認知
させ、よほど「延命のため」だと思った。はっきりそう言ったことが
ある。現場サイドは大賛成なのだが、首脳部は耳を貸すことすらしな
かった。
そもそも、「さすがにこんな大学名はないよ。改名して下さいよ」
と私がいた頃、あるいは諸先輩方の頃から再三再四、口が酸っぱくな
るほど言い続けてきたのに、「改名する費用がいまはない」と同じ理
由で突っぱねてきた大学が、突然こんな建物を建てたのである。開い
た口が塞がらなかった。建設費の総額はいくらだ? 何億払って、あ
の建物を建てた? それが一体どこから出てきた?
ちょうどその頃だった。タワービルなど建てたその裏で、異様な文
章が卒業生に郵送されてきた。たしかその文書というのは「兄弟、親
戚、知り合いに英知大学に入りたいと興味をもっている方がいれば、
リストを作って送ってください」といった内容だったはずである。
「だったはずである」というのは、一読するなり「バカか!」と叫ん
でチリ箱に捨ててしまったため、いま私の手元にないためである。見
境のない知名度活動。そんな広報活動より、英知大学の魅力を作るた
めにもっとやるべきことはあるじゃないかと、カンカンに怒った。
なんというか、魅力ということと知名度ということを別個に考えた
ほうが良いのかも知れない。魅力があれば知名度が上がるが、知名度
が上がると魅力が生まれるとはかぎらない。自分たちの魅力が何なの
か、どこに存在意義があるのか突き詰めて考えない以上、いくら首脳
部が見境のない広報活動をしても一向に知名度は上がらず、全て金の
無駄遣いで終わった。
念のために言っておくが、当時の英知大学に全く魅力がなかったわ
けではない。教職員を親と慕い、学生を子と思う気風はまだ残ってい
たし、今道友信先生が自伝の最後に英知大学を「やっと落ち着いて研
究できる環境を与えられた」と喜んでおられるのは、何も上等の本棚
と上等の椅子を用意してくれたとかそんなことではないはずだ。英知
大学に何かしら魅力を感じられてのことにちがいない。そして、それ
は今道先生ご自身もそうだった。
私たちよりはるかに上の一流大学を卒業し、サラリーマンとして活
躍されていたある方が、40近くになって、尊敬する哲学者・今道友信
が近隣で講義していると知り、会社を辞して、今道先生に師事せんが
ために英知大学大学院に入学してきた。その方から見ればどうしよう
もない三流大学だったであろう。しかし魅力とはこういうものだ。知
名度やブランドがなくても人を惹きつける。自分たちがどんな鉱脈を
秘めていて、もっていた魅力をどう生かし磨いていくか真剣に考えて
いれば、英知大学も今回のような事態に立ち至らなかったであろ
う。
今道先生が担当した講座は退官後の現在、講師か助教授に昇格したそ
の教え子の方が引き継いでいる。
もちろん、根拠のない広報ばかりしていたわけではなく、自分たち
の魅力を広める努力を当時の英知大学もしていた。この頃から、急に
資格講座の数が増えた。コンピューターから図書館司書、はては鍼灸
師の資格講座まで開設された。私個人としてはこれらの動きには賛成
で、就職活動にも役立つだろうし、社会的にも大学の存在意義を高め
ることになるだろうと思っていた。ただし、これにも問題がないわけ
ではない。
資格講座を開設するために、かなり高価な用具を必要以上に購入し
たり、教室も工事した話も聞いている。今回mixiで知ったことだが保
母さんの資格講座開設のために高いピアノを何十台も購入したらし
い。それが必要というなら多少の出費は致し方ないだろうが、あんな
豪華な箱モノを建てた後に「必要以上」の投資というのは常軌を逸し
ている。そもそも、これらは大学にとって枝葉のことなのであって、
本業の学部大学院の授業をしっかりしなければ話にならない。
しかし、この頃の英知大学は、本業が迷走していたような気がして
ならない。端的にそれを示しているのは、学科構成である。
〜1993 神学科 英文科 西文科 仏文科
1994 神学科 英文科 西文科 仏文科 国際文化科
イスラム聖職者のための別の名前は何ですか?
2004 人間科学科 英文科 国際文化・言語科
(西語、仏語、アジア研
究コース)
2008 人間文化科 多文化共生学科 人間発達科
学科
年々名前が立派に変われば変われほど、何をやっている学校なのか
わからなくなっていく。最後の方は「共生学科」だそうだが、これで
は何を教えているのか、私ですら見当がつかない。その、何をやって
いるのかわからない学校に、自分の子供を入学金を払って預ける親な
どいるだろうか。どうして、そんなことに気がつかなかったのだろ
う。
それもこれも、「時代の流れ」「延命のため」と尤もらしい理由を
つけていたが、そんなマスコミ文句を弄っている暇があるなら、そん
なことより先に、この大学の本質が何なのか議論して、そのうえでど
ういう方針でいくのか、はっきりさせておくべきではなかったか。
この頃――だいたい10年前のことだが、同窓会の会報に一度、提言
めいた一文を投稿しようかと考えたことがある。
英知大学の不幸は知名度なり少子化よりも、各階層の意見が噛み合
わないことにある。「教授陣」「在校生」「卒業生」が互いに分離
し、教授陣は「在校生、卒業生はもっと出世しろ」、在校生は「教授
とOB、OG、手を差し伸べてくれ」、卒業生は「残った者でなんとかし
ろ」という風に、相手がどういう現実を踏まえ、何を考えているのか
顧みず、ただただ「お前がなんとかしろ!」と言い合っていることに
ある。そんな抽象的な言い合いはもう辞めて、互いに相手の抱えてい
る事情を尊重しながら考えに耳を傾け、そのうえで「こことここは非
現実で無理だが、ここの部分は我々も何かできそうだ」と建設的な議
論をしようではないか。おおよそ、そんな内容だった。
まぁ、今から考えてあまりに幼稚で投稿しなくてよかっただろう。
教授陣よりたちが悪いのは経営陣で、教授会で一致した意見もなかな
か実現しにくかったのではないかと、今では考えている。もともと、
カトリック教会は派閥争いの激しいところで、学内でも対立が激し
く、なかなか動きが取れなかったのではあるまいか(そんななか、一
人超然としていた多田先生は、やっぱり凄かった)。
お声がかかればいくらでも書くつもりでいたが、私の小文はついに
掲載されることはなかった。――卒業生の一人として今悔いているの
は、この10年ほど前に卒業生全員が本気になって怒っていれば、今日
の事態は防げたかもしれないことである。それが悔やまれ、在校生や
真面目な教職員の方々にほんとうに申し訳なく思っている。
私の小文はついに掲載されることはなかった。――事態はそれ以上
悪化していた。投稿しようかという矢先、財政悪化を理由に大学は同
窓会への資金援助を打ち切った。連絡ハガキすら出せなくなった同窓
会は数年にわたり活動停止に追い込まれてしまった。
つづき
母校・英知大学の破綻について(3)
箱モ箱モノを建てている裏で、この施策である。同窓会誌休刊の知ら
せを手にしながら、「これはそのうち大変なことになるかもしれな
い」とゾッとした。こういう目立たない部分を大切にしなければイザ
という時に誰も助けなくなってしまうだろう。そして、ここまで目先
の「延命行為」(長期的には「自殺行為」)に突っ走る母校に、私です
ら失望した。実際、この活動停止期間に卒業生の気持ちは母校からど
んどん離れていった。数年後に、同窓会はどうにか活動を再開した
が、比べ物にならないくらい生気を失ってしまった。
母校から気持ちが離れていったのは、卒業生だけではなかった。教
職員も気持ちは離れていた。この10年の間に、私が大好きだったクセ
のある名物先生はゾロゾロゾロゾロ辞めていった。沈む船から鼠が逃
げ出すようなものである。「社会調査法」の先生は私にまで三行半を
つけて辞めた。一緒にお酒を飲んでいた英文科の先生はほとんどいな
くなった。最後まで我々にパワーを見せつけてくれたフィリピン学の
先生すら、いつの間にか大学を去って行った。その一方で、昔の大学
を知る高齢の先生方は次々に退職され、前述の岸学長や多田智満子先
生のように、ほどなくして亡くなられた方もいる。
入れ替わって入ってきた教授陣は、訳のわからない落下傘部隊だっ
た。上智だか米国何とか大卒だか知らないが、英知大学が何なのかわ
かっていない、いやそれ以上に、わかろうともしていない連中だっ
た。過去の英知大より自分の思いつきのほうを信じて疑うことのない
連中だった。
大学院を建てた頃からこの大学にアジア関係の教授、学生がやたら
に増えてきた。「今度、英知大が学生に博士号を初めて与える」とい
うので、「へぇ、どんな学生ですか?」と訊いたら、インド人だとい
うので腰が抜けたことがある。私がいた頃、わざわざ日本の英知大に
留学してきた人など、ほとんどいなかった。
もともとヨーロッパ外国語教育しかしていなかったはずの大学が、
どうしてこんなにアジアに目を向け始めたのか、学問レベルでは全く
理解できなかった。私自身は、領域を広げることには賛成だが、それ
は昔からあった学科を活かすような方法でであった。具体的には、せ
っかくスペイン語学科があるのだから南米に目を向けていいと思った
し、仏文についても旧フランス植民地の文化など今後伸びるかなと考
えていた。しかし、実際に増えたのはアジア関係の講座で、(カトリ
ック系大学なのに、なぜか)中国人留学生が増えていった。
学問的レベルで私はいまだにこの選択が理解できない。別にアジア
研究が悪いということはない。問題は、ヨーロッパ、特に宗教文化の
研究で一定の役割を果たしてきた大学に、アジア研究、特に現代中国
社会論を接ぎ木しようとしても成功するかということである。しかし
ながら経営のレベルではお察しがつくだろう。入学金・授業料を払っ
てくれる留学生目当てであることは見え見えだ。
歴史を無視したところでの発想は、大抵は凡庸な思いつきでしかな
い。凡庸な思いつきが英知大の歴史のうえにいくら接ぎ木しても、そ
れは付け刃でしかなかった。
これもツケ刃的施策だったのだろうが、この頃、まるで右翼団体の
ように傘下の「研究所」がやたらに乱立していった。
ここ五年ほどの英知大学は、根拠を欠いたツケ刃的施策がなお一層
加速していった。その最たるものが「聖トマス大学」への改名であ
る。
私たちも在学時「エッチ大学」という名前が恥ずかしく、「校名を
なんとかして下さいよ」と事あるごとに口にしていた。ところが44年
間変えなかった校名が、突然2007年5月「聖トマス大学」に変わっ
た。この改名の理由は新聞報道では「エッチ大学と蔑称されないた
め」とか、「(ポルノ本ばかり出していた)英知出版と混同されないた
め」とされ、wikiでもそう書かれている。しかしこれは嘘、少なくと
も表面的な理由にすぎない。「エッチ大学」の件は学生に言いすぎる
くらい言われてきたのに、大学はそれまで44年間全く無視していた。
「英知出版との混同される」など嘘であることは、ちょっと調べれば
わかる。英知出版はその2年前にポルノ出版物から足を洗い、改名の2
か月前には東京地裁� ��自己破産を申請している。
では、何が狙いだったのか。
留学生である。
イギリスに本部がある聖トマス・アクィナス大学国際協議会という
ものがあり、世界で6校加盟しているらしいが、その支部になれば相
互で留学生を受け入れられるのだ。ただし、条件があり、本部校以外
の各大学は「トマス・アクィナス」を校名に入れなければならないの
である。――わかりやすく言えば、留学生を得んがために名前を売っ
たのである。
それで留学生が来たのかわからないが、おかげで英知大学を知って
いる人にすら「聖トマス大学って新設校?」と言われるように、あれ
ほど気にしていた知名度が一気に低下した。
(というか、こんなネーミングがあるか。私ですら、英知大学のほう
がまだカッコいい。 はっきり言って、今の経営陣、首脳部はセンス
がない!!)
マグダラのマリアは何の家からです
昨年、カヴァフィス伝共訳を出した私は尊敬する恩師に報告するべ
く、神戸長峰山に眠る多田先生の墓に詣でた。翌日、14年ぶりに母校
に立ち寄った。それは日記にも書いたが懐旧の情に満ちた、ほんとう
に実のある訪問だった。しかし、寂しさも感じないわけではなかっ
た。学生も、卒業生もいなかった。入学式前日だったので仕方なかっ
たのかもしれないが、私が学生だった頃には信じられない光景だっ
た。家より大学が居心地のいい学生や卒業生が、春休みでも夏休みで
もたくさん歩いているものだった。
出迎えた教授は「聖トマス大学になって、これから伸びる」と何度
も言っていた。口では「それは素晴らしい」と私は言ったが、教授が
本当にそう思っていらっしゃるのか、心中複雑だった。そのうえ、昔
私と仲が良かった「クセのある」先生がたの悪口を再三聞かされた。
昔は一枚岩に見えた教授陣がこんなことになってしまったのか、と悲
しかった。懐旧の情に浸れたのはよかったのだが、私の頭のなかの英
知大学「われらが巣屈マレンピア」は頭のなかだけのもので、もう現
実にはないのだとしみじみ感じた。
つづき
母校・英知大学の破綻について(4)
私はここ数年同窓会報をほとんど真面目に読んでいなかったのでwiki
で知ったのだが、去年頃の同窓会報で、着任したばかりの(つまり落
下傘部隊)現・小田学長はすごいことを書いていたらしい。「梅田に
近い中津に新キャンパスを2011年に作る」、「東京千代田区平河町に
衛星中継による授業、サテライトスタジオを作る」。昔の英知大学を
知らないせいか、知ろうともしないせいか、落下傘部隊はやたらに大
きくすれば大学がよくなると信じていたらしい。今もまだそう信じて
いるのかも知れない。
去年の同窓会報で一つだけ覚えているのは、冒頭に「一時はどうな
るかと危ぶまれましたが、2013年4月の開学50周年をどうにか迎えら
れそうです」と、報告されていたことである。どういう根拠なのかわ
からないが、めずらしく謙虚な口調での報告なのでたぶん嘘ではなか
ったのだろう。しかし、それから1年もたたないうちに英知大学は
2013年3月での閉学を発表した――だとしたら、誰かに大学は存続で
きると騙されていたのか?
それからほどなくしておきた、元学長・井上博嗣神父の猥褻罪逮捕
は予想外の出来事だった。感情的に流されてしまい、「井上学長!ど
うしたんですか!」と叫びにも似たことを日記に書いてしまったが、
今、井上学長を一時とは言え信じられなかった自分を恥じている。そ
のうえ、マイミクの方にまで誤解と心配を与える結果になってしまっ
た。まず、この点をこの場で心から謝罪したい。
確証はないが調べれば調べるほど、井上学長逮捕劇(警察は立件で
きなかった。事件ではなく劇)は、個人の痴情などはるかに超えた腐
臭の匂いが立ち込める出来事だった。
確かに、紳士を絵にかいたような優しい井上学長が猥褻罪で逮捕さ
れたのには私も驚いた。しかしそのうち、何かおかしいことに気がつ
いた。全ての情報がある一か所からしか出ていないのだ。その一か所
からの通報をもとに警察は井上学長を逮捕し、その一か所からの情報
でマスコミは報道した。ところが警察が調べても、全く何も出てこ
ず、一週間後には証拠不十分で釈放になった。2月以降、マスコミが
この件で報道しないのはそのためである。つまり構造としては、その
一か所のみがこの件の情報を出しており、そこが嘘をついているとな
れば事件全体が嘘、巨大な冤罪事件になってしまう。
その一か所とはどこか。
大阪カトリック教区である。
念のためにいっておくが、確証はない。男女間のことは当事者にし
かわからない面があり、井上学長自身の直接の発言も一切出ていな
い。しかし、そのことがおかしいのではあるまいか。事件発覚以来4
カ月もたつのに、井上学長自身の肉声が一つも出てこないのは異様で
ある。
では井上学長は釈放後の今、どこにいるのか? 釈放後ただちに大
阪カトリック教区により、姫路市にある聖職者専門のアルツハイマー
患者収容施設に「静養入院」させられているらしい。
大阪と埼玉のカトリック教区は全国的に評判が良くなく、近年急速
に左傾化しているらしい。井上神父はごく良識的な中道派なので、
「粛清」されたとしても理由のないことではない。
しかし……これは下衆な私の勘ぐりなので、もしそうだとしての仮
定の話で聞き流してほしいが……「粛清」したい対象者を傘下の精神
病院に隔離・軟禁するというのは、サハロフ兄弟とかパラジャーノフ
の例を引くまでもなく、ブレジネフ政権下のKGBがよく使っていた手
である。しかし、それを2009年の日本の近畿地方で実行した団体があ
るということか。勘ぐりとはいえ、その想像に私は背筋が凍った。
くりかえし言うが真相は当事者二人にしかわかるまい。井上学長が
真相について直接説明する機会を与えられず、黒幕を名指しすること
は永久にあるまい。私はカトリックに詳しくないが、カトリックの教
義では身に降りかかった不幸について弁解するのはよしとされないら
しい。そうでないとしても、井上学長の性格からして永久に沈黙する
だろう。他人を罵ることより、この不運にも神からの意味があると言
い聞かせ、じっと祈りながら黙って耐えるほうを井上先生は選ばれ
る。井上学長と無礼な酒飲みをしたり、一緒にボタン鍋を食べた者と
して、そういう方だと言い切れる。
それにしても、ここまで思い当たったところで、私がどうしても思
い出さずにいられなかったのは、大学時代、橋のたもとで言っていた
先輩の冗談だった。「カトリック教区がなくなったら、うちの大学は
たいへんなことになるけどね」実際のところ英知大学はカトリック教
区からの援助で運営されており、そこを打ち切られたら即破綻してし
まう。教区が元学長を逮捕・軟禁させたとすれば、井上学長が育てた
英知大学を援助支援するはずがない。ましてや、数々のツケ刃的施策
の一つも成功していない大学である。「英知大学が破綻閉学を発表す
る日がいつか来るのではないか」
しかし、もちろんそれがたった4カ月後に来るとは予想外だった。
聖トマス大学の募集停止の発表は6月6日に行われた。
赤字が20億円にもなり、これ以上存続できない。入学募集を打ち切
り、統合などを模索する、というものだった。唐突な発表だが、卒業
して15年以上たつ私のもとには今のところハガキ一枚来ていない。お
そらくハガキを出す予算すらないのだろう。関東や北海道、九州の卒
業生には、母校が消えることを知らない卒業生が多いのかも知れな
い。
もちろん私は統合なり、再編によって、なんとか存続してほしいと
願っている。しかし、十中八九不可能だろう。よく考えてほしいが、
統合なり再編の具体的可能性があるうちに、借金の総額を公にするは
ずがない。そんなに難しいことを言っているのではない。ある程度恋
仲になって「実は私には多額の借金があるのですが、こんな私と結婚
してくれますか?」という相手と、いきなり「私は借金まみれです。
人助けと思って結婚して下さい」という相手、あなたならどっちを選
ぶ?
はっきり言えば「これ以上戦う気はない」と婉曲に言っているとし
か思えない。こんな馬鹿丸出しの会見をよくもやれたものだと腹が立
つ。群馬から尼崎まで行って学長に「てめぇ、やる気あるのか!!」と
本気でぶっ飛ばしたかった。
こんな奴の左に懐かしい西文科の黒い髪をしたY教授が、申し訳な
さそうに身が縮めて座っていた。今の教職員名簿を見てみた。なんだ
かわからない落下傘部隊ばかりだったが、当然のことながら英知大学
時代からの古参の教職員も残っていた。実直な先生ばかりで、おそら
く「言うことを聞きそうだから」と職を背負わされたのだろう。この
先生方は被害者だと思う。留学生を含めた在校生全員には実人生に関
わる問題だから、なお一層の被害者、最大の被害者である。
それに比べればとは思うものの、この大学に思い入れを持ちながら
退職・転任された先生方、私たち卒業生も少なからず被害を受けてい
る。かつて英知大学がどれほど愛されていたか知る者として、ショッ
クを受けた先生の誰かが体を壊さないか、「なんとか存続しろ」と誰
か卒業生が校門の前で切腹しないか、私はハラハラしている。知らな
い人間は冗談だと思うだろうが、かつての英知大学はそれほど愛され
ていた。
しかし、報道から数日たつうちに、平手打ちをくらわせに群馬から
尼崎まで電車を乗り継ぐほどの価値もこいつらにないことに気づい
た。
報道を知ってからいたたまれない私は一切この件のニュースを見て
いなかったのだが、この記者会見で学長が破綻にいたった理由につい
て「少子化とともに、それにもかかわらず政府が大学数を増やしたた
め」と説明したらしい。
もう終わった、と思った。正確には、もうすでに終わっていたのだ
と思った。
「われらが巣屈 マレンピア」英知大学の精神といったものは、大学
執行部にさえ微塵もなくなっていたのだ。英知大学があった頃、もし
も私がこんな発言をしたら、どうなっていただろう。「フォリオ君!
責任転嫁なんかみっともないよ。男はあんなことを言ってはいか
ん!」と、複数の先生あるいは職員が親のように説教してくれただろ
う。それが英知大学の教職員だった。「フォリオはん、アカンて。あ
の発言はカッコ悪いって」と同窓生たちが兄弟のように諭してくれた
だろう。それが英知大学の学生だった。あいつらには英知大学の精神
といったものはまるで感じられない。
実際、聖トマス大学はもはや誰からも愛されていなかった。この文
章を書くために友人にメールを出したり、電話をしたり、各ブログを
読んだ結論だが、卒業生で聖トマス大学に同情している者は一人もい
なかった。私たち卒業生が嘆き、悲しみ、腹の底から慟哭しているの
は、かつて偏差値は低くオンボロで小さかった母校、英知大学がなく
なることだった。そして口々に言っていることは、英知大学は英知大
学のままでよかった、小さな語学のみの学校でよかった、よほど健全
で存在意義があった、魅力的だったということだった。定員500に100
人しか来ないなら、その100人でできる自分たちの最高の教育を施せ
ばいい。定員100人に50人しか来ないなら、その50人でできることを
考えればいい。 それでとうとう0になってしまったとしても、何を恥じることがあろうか。
私も振り返って、そう思う。少なくとも、よほど健全だ。
皮肉にも、大学淘汰時代突入のなか真っ先につぶれたのは、私たち
の母校だった。ただし、ここまで読まれた方は理解されるだろうが、
「時代の流れだから当然」というのは理由にはならない。内実は「時
代の流れ」ではなく、「時代の流れ」という言葉に踊らされた揚句、
自分たちの精神を失い、何を何のためにどう教えるべきか見失った帰
結が、この事態である。
(だいたい「時代の流れ」などほんとうに見通している人は何人い
るのだろう。現代的なるものが、なんと同時代とずれていることか、
あとから気づかされて愕然としたことのほうが多いのではないか。そ
のあたりの謙虚さをあの大学経営陣は持ち合わせていたのか、今は悔
やまれてならない)
そのうえで、具体的な対応とまでいかないが、卒業生としてどうい
う心構えをするべきか、少し考えてみよう。まず、現執行部は一切頼
りにはするまい。怒りから言っているのではなく、冷静に考えて信用
はできない。新キャンパスを作るだの、衛星回線授業だの言っておき
ながら(おそらく、就労目的の留学生への便宜だったのだろうが)、
翌年度早々にはいきなり借金20億で募集停止などと言い出す連中を、信
じられるか。人をだます悪意が彼らにあるか、ないかの問題ではな
い。おそらく自分たちでは何一つ約束事が果たせない状態に陥ってい
るのだろう。「今いる在校生を卒業まで絶対にちゃんと面倒を見ろ」
それ以外、私から現首脳陣に言うべきことはもはや一つもない。
仮に大学が統合などで存続できるなら、ぜひそうしてほしいし、キ
ャンパスが残ってくれることを私も祈っている。あのキャンパスが更
地になった姿など見たら、私などきっとその場で発狂するだろう。
しかし、これについては望み薄だと言わざるを得ない。20億の借金
を抱え込む別の大学などほとんどないであろうし、土地を転売して赤
字を埋める方が経営母体にとっても得策だろう。
むしろ今現実的にまず考えることは有形の遺産の保全より、無形の
遺産の保全ではないだろうか。残された英知大学の精神といったもの
を、なんとか続いていくことが私にとって今、集眉の関心である。た
とえば、さすがカトリック系大学というべきか、かなり高いレベルに
達していた生命倫理に関する研究の継承先も考えねばならない。
確かに現代は「人間なんか考えていたらオマンマにもありつけな
い」時代であるが、だからこそ今この時、倫理を、生命を、あるいは
人間を問い直そうというのが、英知大の教育にはあったし、他にはな
い魅力だったと思う。だから、「死に対してどう向き合うか」という
命題を20年以上練り直してきた高木慶子教授の「死生学」、「グリー
フ(悲嘆)のケア」については国の内外で注目されている。
html
4月に開設された「グリーフケアの研究と専門家養成を兼ねた機関」
グリーフケア研究所が出来てから、わずか2カ月でこのような憂き目
にあったことは大打撃だろうが、この移籍のために何かできることは
ないか、私ごとき者でも考えてしまう。もちろん、英知大学の精神、
英知大学の魅力は卒業生、在校生各人各様にあげることができるだろ
う。それらを保全延命する道を探していこう。
そのうえで究極的には、卒業生が英知大学で学んだことが英知大学
の精神であり、遺産であるのだから、各人それをさらに豊かに広げる
こと、自分の本分をこれからも尽くすことが英知大学の名を残すこと
になるのではないか。私たちの母校が聖トマス大学という教育史の汚
点で終わるか、英知大学という教育史の伝説になっていくのか、私た
ち次第である。
繰り返し言っておくが、英知大学が閉鎖されるのは時代の必然では
ない。避けようとすればいくらでも避けることができた事態である。
所在地すら知らない「ひょー論」が仕事をこなすために、そういう安
易な図式を振り回しているようだが、「バブル期、高度成長期に乱立
した大学はつぶれる」という運命論はまやかしである。だいいち、英
知大学がバブルに踊ったことなど一度もない。90年代中ごろになって
も、廊下を山羊が歩いていたり、ゴキブリ入りの味噌汁が出てきた話
は冒頭に書いた。マネーの「マ」の字も、当時はなかった。
高度成長期は一層過酷だった。大学図書館ができるまでに12年を要
した。学生寮がないため、修道女さんらは大学の教室に寝泊まりして
いた。「お前の大学は学園紛争が一つもない。あんなのは大学じゃな
い」とさんざん揶揄されたが、それどころじゃなかったんだ。みんな
必死だったんだ。。。当時の先輩から、そんな話を聞かされたことが
ある。そういうところから大学の精神といったものを編み出してきた
全ての先輩方に、私は感謝したい。そして、今の今までその精神を守
ってきた、留学生を含めた後輩、在校生にも感謝したい。
まやかしの運命論の下に隠された思惑、狂騒、腐敗は、他の大学、
あるいは会社、組織でも十分起こりえることだろう。マスコミはこん
な小大学を詳しく取り上げないだろうが、何かしらここには教訓とな
るものもあるかもしれない。日頃は愚痴ばかり飛ばして、友人限定の
日記なのだが、この日記だけはしばらく一般公開にしておく。
それにしても、私の衝撃は激しかった。多田先生の訃報にも匹敵す
る衝撃だった。こればかりは、どんなに言葉を尽くしても誰にも理解
できまい。
関東でこのニュースはほとんど取り上げられず、私が知ったのは4
日後のmixiニュースだった。信じることができず、泣くにも泣けず、
ほとんど何も考えられなかった。午後に夏祭りの会議などあったが、
心ここにあらずといった顔でずっと出席していた。「なんで、こんな
ニュースを聞かされた日に私は会議なんかに出ることができるのかし
ら」と、ボーと考えていた。しかし、夕方会議が終わると堪え切れ
ず、家とは逆の山の上まで車で登った。
この一年、私は自分の寄って立つところの物をどんどんどんどん失
った。体を支えていた支柱を一本一本抜き取られたかのように、前に
進むどころか自分の身を守ることさえままならなかった。そんなと
き、こんなに大きな損失を受けるなど、もう恨みにも罵りにもならな
かった。言葉にすらならなかった。誰もいない山頂で車から下りる
と、もう立つ力さえなく、その場で四つん這いになって「わー」だか
「うぉー」だか、意味のわからない叫び声をあげて慟哭した。
たぶん、どれほど私の悲しみが深いのか、他人にはわかるまい。何
を言われようが、この穴は一生埋まることはないだろう。
全てが許せなかった。もはや特定の個人も、団体も突き抜けた怒り
に拳が震えた。
私たちの思い出を、私たちの願いを、私たちの想いを、屈辱ととも
に汚し、粉々に打ち砕いた邪念を私は一生涯、絶対に許さないと誓っ
た。
0 コメント:
コメントを投稿