佐藤優 : キリスト教神学概論 : 第19回 [補論 ① 三一の解釈]
●[補論]東方教会と西方教会における三一解釈の差異
(筆者註:連載で想定する水準からは、少し離れて難しくなるテーマについては、神学的に深く考えてみたいという読者のために補論という形で論じる。難しいと感じる読者は、読み飛ばしてもらって一向に構わない。)
この項目は、神学的に相当難しいテーマなので、問題点を提示するだけにとどめる。
西方教会、つまりカトリック教会、プロテスタント教会の伝統においては、三一のうち、一を重視する傾向が強い。それが行きすぎると、イスラームの唯一神理解に近くなる。とくにカルバン派の神観はイスラームに近くなることがある。
これに対して、東方教会、つまりギリシア正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本ハリストス正教会などは、三一の三を重視する傾向が強い。それから、英国国教会(日本では聖公会)は、西方教会の伝統に属するが、三を重視する傾向にある。これは、英国国教会の神学が、中世のリアリズム(実念論)の影響を強く受けて形成されたことと関係していると筆者は見ている。
プロテスタント神学においても、ユルゲン・モルトマンが、三への傾斜を示している。ドイツのプロテスタント神学者ホルスト・ペールマンは、モルトマンの複雑な議論を手際よく整理している。
猶予メノモニーフォールズ
〈手短かにモルトマンの十字架中心の三位一体の概念を見てみよう。そこでは三位一体、は徹底的に歴史化される。モルトマンにとって十字架の死は、「神における自己分裂」そのものである。「十字架の死の分裂」は「神ご自身を貫いているのであって、神人たるキリストの人格を貫いているのではない」、「神自らが、神によって見捨てられ、神自らが神を追い出す」(ゴルヴィツァー)。「古代の無感動(アパティッシュ)な神学」に代わって、「熱情的(パテティッシュ)な神学」が現れなくてはならない。「ここにおいてひとりの神が、その何の感動もない栄光と超力的崇高さから、ただ外に向かって行動するのではない」。「ここでは御父が自分自身にあって、つまりその愛の自己、御子にあって行動する、その結果御� ��が自分自身にあって、その愛の自己が御父にあって苦しまれたのである」。「十字架にあって、イエスとその神と御父とは、呪いの死によって最も深みにおいて分裂し、その献身によってその最も内奥において一つなのである。御父と御子の間のこの出来事から、献身そのものが出てくる、つまり、見捨てられた者を引き受け、神なき者を義とし、死者を生かす御霊が出てくる。見捨てられる神は、この献身の御霊にあって一つである。」〉(J. Moltmann, Gesichtspunkte der Kreuztheologie heute, Ev. Theologie, 33. Jg., 1973, S. 352f, 354f, 359. さらにH. Geiser, Der Beitag der Trinitaslehre zur Problematik des Redens von Gott, Z Th K 1968/H 2, S. 231ff.)(ホルスト・ゲオルク・ペールマン[蓮見和男訳]『現代教義学総説 新版』新教出版社、2008年、199~200頁
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要するに、神の目的は人間の救済である。従って、神は人間の歴史に具体的に介入してくる。それがイエス・キリストが、1世紀のパレスチナの地に、人間として現れたということなのである。このような愛に基づく自己放棄が三一論においては示されないといけないとモルトマンは考えるのだ。
ペールマンの記述をさらに見てみよう。
〈「もし三位一体を、イエスの苦難と死における愛の出来事として考えるならば、その時三位一体は、決して天において自らに閉じられた円ではなく、むしろ、キリストの十字架から出発する、地上における人間のために開かれた終末論的[訴訟]過程である」(Ders., Der gekreuzigte Gott, 1972, S. 235f[『十字架につけられた神』喜田川他訳、新教出版社])。「十字架における出来事から三位一体論が展開されるならば、《神そのもの―私たちのための神》の相違が、内在的三位一体と経綸的三位一体との相違と同じように、廃棄されるように思える」。モルトマンはラーナーと共に、次のような考えをもつ、「《経綸的三位一体は、内在的三位一体である》、逆もまた真である。《神は私たちに三重の仕方で関わりあう、そしてまさにこの三重の仕方の(自由な、何の拘束もない)私たちとの関わりは、ただ単に内なる三位一体の模像とか類比(アナロジー)とかではなく、むしろそれ自体なのである》」(Ders., Gesichtspunkte. . ., S. 362f.)
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事実、神はただ単に唯一なのではなく、三つにして唯一なのである。モルトマンの表現によれば、神は社会的な神であって、独裁的な神ではない(Ders., Gesichtspunkte...,S. 362f.)。それゆえモルトマンは、「三」性を強調する。この「社会的三位一体論」(A.a.O. S. 35)は、「人格的な社会主義」(A.a.O. S. 217)を形成し、国家と教会―これらは実は専制君主的で「一」性を強調する神概念に依拠していた―における独裁的な構造を排除するはずである。〉(前掲書200頁)
モルトマンは、三を重視することによって、国家、教会が独裁的に人間を支配しようとする欲望を阻止する神の啓示を読み解こうとする。教会とは教会共同体、すなわちキリスト教徒によるネットワークという意味であり、現代に即して考えると社会ということになる。三一論において三を重視することで、社会が人間を独裁的に支配するというシナリオも拒否される。人間によって作り出された国家、社会、教会による自己絶対化を脱構築するという視座で三一論を再評価するモルトマンのアプローチは基本的に正しい。
〈演習問題7 【難問】
モルトマンは、〈十字架における出来事から三位一体論が展開されるならば、《神そのもの―私たちのための神》の相違が、内在的三位一体と経綸的三位一体との相違と同じように、廃棄されるように思える〉と述べる。なぜ内在的三一論と経綸的三一論というアプローチを廃棄する必要があるのか。(300字~600字程度)〉
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