2012年4月10日火曜日

癒しなのか、どうなのか。招き猫になるのか、ならないのか。どっちなんだい!|神戸市垂水区『KITCHEN-DINING ひつじ家』


はい、先ほどの大雑把な道案内を早く流してしまいたいため。

どうでもいいウチの猫たちをアップします。

 

水槽見てます。

 

のぼります

2012年4月9日月曜日

Sojournerの意味 - 英和辞典 Weblio辞書


for they often make a man lay to heart that he is only a stranger and sojourner, and may not put his trust in any worldly thing.

2012年4月7日土曜日

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2012年4月6日金曜日

護教の盾 ルチアの写真の上に広がり行く野火


討議

- ファチマのシスター・ルチアが二人いたかどうかについての賛否両論 -

簡潔な経過記録

2006年4月5日、マリアン・ホーヴァット博士は、多くの反響を引き起こすことになるファチマのシスター・ルチアの幾枚かの写真についての分析 [ここをクリック] を、このウェブサイト上に置いた。我々はこの問題に関し読者から寄せられた反応のうちから最も表現力に富んだものを選び、それを下に掲示している。

ホーヴァット博士にこの記事を書かせる引き金になったのは、インサイド・ザ・バチカン誌2006年3月号に掲載された一枚の疑わしい写真だった。彼女は記事を書く前に、その雑誌社に、その写真に映っているシスター・ルチアの正確な年齢についてだけでなく、その情報自体の確かさについても問い合わせた。現在 (2006年4月11日) に至るまで、彼女の要請に何の回答も与えられていない。また現在まで、インサイド・ザ・バチカン誌のウェブサイトには何の訂正記事も表示されていない。

しかし他方では、我々が然るべき熟慮を期待する読者達の中から、同じ方向性を持った二つの情報が我々のところに届いた。

第一のものは、Novus Ordo Watch のウェブサイトの声明に関するものだった。それによると、インサイド・ザ・バチカン誌は、自分達は誤報をしたのであり、その写真は実はシスター・ルチアのものではなかった、と認めた、ということだった。我々は Novus Ordo Watch の編集者に、彼の得た情報の信憑性を知るためにコンタクトを取った。彼は、「私はインサイド・ザ・バチカン誌の職員を友人に持つ私の友人からその情報を得ました。おそらくインサイド・ザ・バチカン誌は、2006年4月号に訂正記事を載せると思います」と答えた。従って、今のところこのニュースは、確認を待っている間接的な証言であるということになる。

第二のものは、ポルトガルから寄せられた情報だった。José Neves Lima 氏。彼は、シスター・ルチアの遺体がコインブラからファチマに移送された時、同じ写真をポルトガル・ウィークリー誌の中で見た、と断言した。Lima 氏の記憶によれば、その写真はコインブラのカルメル女子修道会の現在の院長、磔刑にせられしイエズスのマザー・マリア・セリーナ (Mother Maria Celina) のものであろう、ということだった。

我々は教えられた新聞社と雑誌社のウェブサイトを調べてみたが、言及された写真を見つけることはできなかった。Lima 氏から送られて来た二枚の写真を議論に委ねるために、彼のコメントと共にそれを下に掲載する。それにより、読者は自分でこれを判断できる。Lima 氏は我々の、我々の読者のために状況を明確化させるためにポルトガル・ウィークリー誌の写真と記事をスキャンしたものを送って頂けないか、との要望に応えてくれたのである。

たとえ最初に問題とされた写真がシスター・ルチアのものではなかったとしても、ホーヴァット博士が年長のカルメル会修道女のルチアと若いドロテア会修道女のルチアについて書いた記事は有効なままである。更なる弁明がこの提起された重大な疑惑に与えられるまで、TIAは彼女の記事を彼女の分析の言葉と共に我々のウェブサイトに掲示する。

TIAの通信事務局は、受け取ったEメールの中から最も注目すべきと思われるものを選んでいる。それらを以下に掲げる。


ポルトガルの読者から

親愛なるホーヴァット博士

私は今、インサイド・ザ・バチカン誌が年齢40〜50と思われるシスター・ルチアとして掲載した写真は、実は現在のカルメル修道会院長、磔刑にせられしイエズスのマザー・マリア・セリーナのものであるということをお伝えするために書いています。私はあなたに、疑問視されている写真、あなたの記事の中で体を前に傾けた姿が写っている彼女の写真は、その修道院長が Expresso of Lisbon 誌の取材に応えてインタビューされた時のものであり、過去の2月号 (確か2006年の2月18日号か2月25日号) の中で、シスター・ルチアの遺体がコインブラのカルメル会からファチマ大聖堂に移送された時の記事の中で使われていたものである、と指摘させて頂きます。

With my best regards,

José Carlos Neves Lima


ホーヴァット博士の応答:

José Carlos Neves Lima 様

あなたが送って下さった情報に感謝します。それは非常に有益且つ明確なものでした。私はこれをTIAに投稿したいと思います。しかし私は、あなたが誰に代わって私の読者達にその情報を与えるために話しているか、を知っておく必要があります。

2012年4月5日木曜日

月夜にさんぽ: デボラの世界


デボラの世界

久しぶりに本の感想文です。
「デボラの世界」ハナ・グリーン著 
40年ほど前に刊行され、現在では出版社にも在庫がないようで、図書館などでしか手に取る機会がない本なのですが…
私自身がこの本と出会ったのは20年ほど前。一度読んだ本を再読することがあまりない私がこれまで何度か読み返し、そして最近、しばらくちゃんとした本を読んでなかったな、と再び手に取ったのがこの小説でした。昨夜読了。やはり改めてとても良い作品だと思ったので紹介します。

副題に「分裂病の少女」とあるこの本は、みすず書房の心理学専門書シリーズの一冊として発行されています。フィクションでありながら当時の精神病理学の知見を正確に踏まえて分裂病(現在は統合失調症と呼ばれているようです)の患者の精神世界を描いているために、心理学や精神病に関心のある人を対象に専門書として扱われたのだと思います。
しかしこの作品は純粋に小説として非常に優れた魅力的な作品です。さらに、今や心の病は特別なものでなく誰もが罹りうる一般的なものとして認知されてきている時代、現実とバーチャルな世界との境界が侵食しあっている時代であることを思うと、色褪せないどころかより共感や関心の得られるテーマを持っていると思います。

2012年4月2日月曜日

ジェロニモス修道院と周辺



宿泊ホテルはマリオット。豪華ホテルだがずいぶん中心地から離れて不便なところにある。最後の2泊がこの位置とは!!。
グーグルの地図をネットで見ながら、近い3駅へのコースを検討したがどうみても地下鉄で中心地へ出るにはホテルから駅まで15分以上歩くことになる。
15分は道順がわかっていればの話だから迷いでもしたらそれこそ汗を流して泣くような思いをせねばならない。この猛烈な暑さの中を・・。

今回のツアーはポルトガル周遊の旅。妹2人と初めて3人で参加した。
2004にリスボン滞在の個人旅の経験があるが地下鉄の乗り方も切符の買い方もそのときとは変わった様子。変わったその部分のために新しい地球の歩き方「ポルトガル」を買ってきた。
詳しい地図もグ� �グルから拝借し持参していた。

2012年4月1日日曜日

サイババの言葉批判1−20



 人はなぜ言葉を持っているのでしょうか? 人の言葉は他の動物には通じません。まして、石ころには全く通じません。それは、人の言葉が人と人とを結び、心を通じ合わせるために発明されたものです。そして、人の姿も能力も見てごらんなさい。もし、あなたが、一本の松の木だったら、こういうでしょう。
 「どんな人間も似たり寄ったりだ。どんぐりの背比べをしてばかりいるなあ」
 福沢諭吉は「人の上に人を創らず、人の下に人を創らず」と言いました。だから、人は神のように絶対的な上に立ち、ものを言ってはならないと思うのです。平等が基本でしょう。真理というのは、人類みんなで探し求めていくものです。一人の人間、しかもサイババという個人の言葉が真理というのは論外です。
 ヒンズー教の根本教義で、「フラフマン(神我)とアートマン(真我)は全く同じである」というものです。でも、全く同じであったら、どうして言葉を二つ持つ必要があるのでしょうか。人は言葉の違いによって、ものを識別できるのです。その識別する力こそ知恵なのです。そして、物事を明らかにしていくことができるのです。
2014  


アヴァターの人生におけるひとつひとつの足どりは前もって確定されたものです

 
 アヴァターの人生におけるひとつひとつの足どりは前もって確定されたものです。スールパナカー(ラーヴァナの妹)の出現は、ラーヴァナがやって来る前兆であることをラーマは知っていました。神の御業をみせつけるために、ラーマはシータに炎の中に入ってそこにとどまるよう言いつけました。すでにラーマが肉体をとる以前から神はラーマにシャクティー(超能力)を与えることを決定していたのです。ラーヴァナの修業は凄まじいものであったので、ラーヴァナが大きな罪を犯さないかぎり、彼が神から与えられた恩寵を帳消しにすることはできなかったからです。(3月28日△朝)

 

 

人の生きる姿は誰も決められない


 神話とか物語というのは、必ずそこにその話を作る作家がいます。作家には全体のストーリーがあらかじめ出来ています。特に推理小説などのようなものは、最後の答えを用意して、最初の問題を作る作業のようなものです。
 そして、その作家こそ、神であり、物語の主人公こそ、神の化身なのです。これを現実の人類の歴史に置き換えて、サイババは語っているのです。過去の出来事を実はこうなんだと解釈をかえて楽しんでいるようなものです。
 でも、その神話も物語もその解釈も、真実かというとそうではありません。過去はいくらでも語り、解釈できます。でも未来は語っても、まず当たることはまれです。未来はいつでもほとんど未知です。未来を予言して、もし100%当たるようであったら、この神話の解釈は真実かもしれないといえるでしょう。彼の予言はほとんどはずれていたというのが事実なのです。
 アバター(神の化身)は肉体をもつ人間すべてのことを言います。その人間すべての人生がすべて決められたものだとは誰も言えません。決められていないから、自由があり、挑戦するという命の輝きがあるのです。

 

2015  


ほんとうの「アニャーナバクティ」とは内なる自己の本質を深く探求することから得られるのです